今日もミュンヘンは朝から雨模様でございます。先週の金曜日は朝からドピーカンで日中30度を超えるくらいの暑さだったのですが、金曜の夜から激しい雨が降り始め、週末はずっと雨。今もちょっと肌寒いくらいの気温です。
日本(東京)は今頃、もう相当蒸し暑いんでしょうねぇ。猫飼いの皆さんにとっては、お猫さまのための室内の温度管理(特にお留守番中の)に頭を悩ます季節の到来ですね。
東京に住んでいたころの私は、日中お留守番をするお猫さまたちのために、夏場は1階のリビングダイニングルームに一日中ゆるく(26度~28度設定)エアコンをかけ、冬場は陽が入らなくなる夕方からスイッチが入るように床暖房のタイマーを入れて出かけていました。
東京の私の家は全室南向きで、お天気のいい日は冬でも昼間はあまり暖房の要らないようなつくりだったのですが、逆に夏場は陽が入らないように昼間でも雨戸を閉めっぱなしにしないと大変。それでも、立地的によく風が通る家だったので、人間が家にいるときはあちこちの窓を全開にして、エアコンなしでもしのげたのですが、留守中はそういうわけにもいきません。冷え冷え大理石ボードを使ったり、水を入れて凍らせたペットボトルをバケツに入れて、氷柱代わりに家のあちこちに置いたり、それなりにいろいろ工夫はしていましたが、やはり限界があります。環境にはまったくやさしくない生活でしたが、お猫さまの体調管理のためには致し方ないと割り切って、真夏はエアコン常時ON状態でした。
ところが、せっかく1階にエアコンをかけていっても、2階の一番陽の当たる部屋で布団の中にもぐって寝ている馬鹿猫(こいつです↓)がいたりするんですよね。とほほ。東京では、夏場の温度管理は本当に頭の痛い問題でした。まぁ、それぞれの猫が自分の一番快適な温度の場所を見つけられるように、最低一部屋はエアコンをかけ、家全体が灼熱地獄にならないようにするしか方法がなかったです。
ここミュンヘンでは、真夏でも日本ほど気温が上がることは稀ですし何より湿度が低いので、日本にお住まいの方には申し訳ないくらい、夏場はしのぎやすく快適です。その分、冬が長くて寒くて暗いけど、ドイツの家の室内暖房の効率のよさは、日本とはまた比べ物にならないので、少なくとも一日中家にいる猫たちにとっては、ドイツの冬も快適だろうと思います。
ただ、日本と比べると、春から夏にかけて、気温が変わりやすく寒暖の差が激しいのが悩みです。数日晴天が続いて気温が25度以上の暑い日(ドイツでは25度で十分暑い日です)があるかと思えば、その翌日には冷たい雨が降って、気温が15度切っちゃう、下手すりゃ10度以下になっちゃう、という具合。日本だと一旦梅雨明けして夏になってしまえば、ずーーーーっと暑いのが普通だと思いますが、ドイツは暦的に夏になっても、いつなんどき寒くなるかわからないので、気を抜けない感じ。そんなわけで、いまだにホットカーペット&フリースのブランケットを出しっぱなし、の我が家です。
我が家のダイニングセットは6人掛け。ジュニ男とルイルイは自分の椅子を確保しています。
ミュンヘン暮らしも3度目の夏となりました。最初はいろいろ思うところもあったけど、最近は「足るを知る」といいますか、ドイツ暮らしのプラス面(って、何だ?主として真昼間からおおっぴらに酒が飲めること?)を積極的に数えることにしています。
もともと百姓の子孫で田舎もんの私には、地味で質実剛健なドイツ精神に共鳴するDNAが備わっていたのでしょう。また、20代、30代をストイックに仕事とそのための勉強に捧げた反動が出て燃えつきかかっていたタイミングで、ドイツに来たという時の運もあったのかも知れません。外国人としての生活には制約も多く、ここでできないこと、足りないこと、不便なことを数えればキリがないけど、このゆるゆるとした生活は、まさに天恵、人生のsabbatical leaveであり、日々ありがやたと感謝しております。
そういうドイツのゆるゆる暮らしに慣れた目から見た日本は、一見とても豊かな国なのに、なんだかいつも「あれが足りない、これもない」と社会全体が欲求不満な感じがします。本当に必要なものでなくても、周囲が持っているから、買わなきゃいけない、もっていない自分は負け組。マスコミや企業に煽られて過剰に消費している感じがします。
その社会的な不足感・不満足感は、物質だけの問題じゃなくて、容姿とか能力とか仕事とか収入とか学歴とか社会的地位とか家柄とか家族構成とか、ありとあらゆるもの、すべてに及んでいるような気がします。常に他人と比べて、あいつはもっているのに、自分にはない、勝ち組VS負け組という構図。無用に焦らされて、社会全体の幸福度が低くなっているような感じがするのは、私の思い過ごしでしょうか。
さらに日本では、持ってない人に持っているかのように錯覚させる仕組みがますます発達しているような気がします。そのために、自分は持ってないから仕方ない、とあきらめる方向には人々の気持ちがなかなか向かないようになっているのでは?たとえば、お金もって無くてもクレジットカードやローンで買える仕組みがあるから、本来の収入では手が届かないような贅沢品も手に入れることができる。黒目を本来以上に大きく見せたければ、カラーコンタクトを入れればいいし、失われた若さを一瞬取り戻した気分になるためには、ボトックス注射で皺取りすればいい。匿名のインターネット上では、自分の属性を騙ることなんて簡単。ネットの中だけなら、キモチビの喪男だってイケメンに自由自在に変身できます。モテ擬似体験、全能のスーパーヒーロー疑似体験だって、ゲームが提供してくれる世の中になりました。
そういう夢を売る商売、決して悪いばかりとは思いません。人間の欲望に限りがなく、現実にはすべてを手にすることが不可能である限り、こういう商売は一種のカタルシスとして必要不可欠なものでしょう。そういう商売の本質をきちんと理解した上で利用し幸福感を得ることにはまったく異論はありません。そして、いつも今の自分に満足しない気持ち、背伸びしたいという向上心も、人間の成長にとっては必要不可欠なものだと思います。でも、そういう商売で得られたものは、一時的な満足にはなっても、それゆえに更なる飢餓感をもたらすリスクが心配です。
たまには、自分が今持っているものを数えてありがたいと思う気持ち、ありのままの自分を肯定し好きになる気持ち、を思い出してみる。本当に自分に必要なものは何で、そしてそれを本当に手に入れるためにすべきことは何なのか?それを自分で考え発見し行動する方向に気持ちを切り替えられないと、ただ自分にないものばかりを数えて、不必要に人をうらやむ気持ち、世の中をうらむ気持ちばかりが大きくなって、いつか逆切れしちゃうんじゃないか、と。日本で頻発した無差別殺人のニュースを聞いたとき、私が考えたのはそのことでした。
あるドイツ人が言いました。「自分には家族がいて、とりあえず仕事があって、元気で働ける。それで十分だ。」と。私の周囲にいる多くのドイツ人の生活は、驚くほどシンプルです。幸せの青い鳥は、実は誰のところにもいつもそばにいて、その人の考え方次第で見えたり見えなかったりするんだな、とドイツ暮らし約3年のアタクシの個人的な感想でした。